こんにちは。にしきよです。
今日もよろしくお願いします。
今回の出来事です↓
1. 未明にプノンペン
2. トゥール・スレン虐殺博物館
※本記事はショッキングな画像を多く含みます 。ご注意ください。
1. 未明にプノンペン
2020年1月4日のお話
アンコール遺跡群のある街シェムリアップから夜行バスで走ること数時間、
カンボジアの首都プノンペンへとやって来ました。
チョムリアップスオ!
いえ、超チョムリアップスオです。

今、朝の5時前です。何時に着くかはよくわかってなかったのですが、思った以上に早く着きました。そしてバス停に放り出されました。
まだ暗いっす。ちょ無理っす。
えぇい!タクシーのおっちゃんらもやかましい!
とりあえず座りたい。あとwifi。
実はバスにもwifiがあるにはあったのですが、なぜか使えんかったのです。
プノンペンの宿とか調べ物とかするつもりだったんですけど。

夜間もやってるコンビニに併設されているカフェに避難。
カフェ自体は営業時間外なのをいいことに同類の難民がたむろってる。

フリーwifiあるー(゚∀゚)と一瞬喜んだのも束の間、たぶん飲み物買ってレシートの番号ないと使えない仕様。ぐぬぬ。

ダメもとでコンビニのお兄ちゃんにパスワード聞いてみたらこの箱に入ってるよーとのこと。
あ、コンビニで何か買わないとダメなやつですね?え別にいいんですか?
という訳でありがたくパスワードげとーです。
とりあえず明るくなるまで待機します。
その間に近くの宿とかの情報を調べます。
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明るくなりました。
先ほど予約した宿に向かいましょう。
\わいわい/ \ガヤガヤ/

プノンペンの様子。
早朝から賑やか。
東南アジア感ある雑多な雰囲気です。


こちらのどローカル屋台で朝食をいただきましょう。

荷物を置いてっと。

焼きそば。インスタントのものに野菜やら目玉焼きやらでアレンジしてます。
1.5ドル(約170円)。これで1.5ドルなら安い感じする。

宿に到着~。一泊4.5ドル(約500円)。
チェックインは12時以降ですが共有スペースで休んでいいとのことなので甘えさせていただきます。

2時間ほど仮眠を取って、

観光に向かいます。
宿の前の道で張ってたトゥクトゥクのおっちゃんに値段交渉しました。
ぼく「こことここ、2箇所で6ドル(約660円)で頼める?」
おっちゃん「じゅ、10ドル(約1,100円)ならいいぞ」
ぼく「じゃあそれでお願いします」
相場わかりませんが8~12ドルくらいかなと思っていたのでそれで手打ちです。
多分はじめに値段聞くと25ドルとかふっかけられた値段から交渉をスタートすることになります。なので観光地とかではこちらから値段を提示してしまうのが有効です。
はじめにけっこう強気な価格できいてみるのがコツです。
という訳で行ってきま~す。

川沿いを走ります。
この辺きれい。

けっこう大きい建物ありますね。

街の中心地的なところを通過。
カンボジアのフランスからの独立を記念した塔らしいです。
2. トゥール・スレン虐殺博物館
※この先ショッキングな画像を含みます。ご注意ください

は~い、やってまいりました。
こちらはトゥール・スレン虐殺博物館。
カンボジア内戦の時に使用されていた強制収容所です。
街の中に普通にあります。
その前にちょっと時代背景を整理します。
カンボジアの歴史とこの施設の存在理由なんかを簡単にまとめてみました。
読み飛ばして頂いても大丈夫ですが、理解が深まると思いますのでぜひ読んでいただければ。
・・・・・・
1970年頃のカンボジアは国王を追放したロン・ノル将軍による腐敗政治と、ベトナム戦争のとばっちりでアメリカ軍からの爆撃により国全体が大変な惨状にありました。
1975年にポル・ポト率いるクメール・ルージュがロン・ノルを追放しプノンペンを制圧。
当時のカンボジア国民はそんな中、クメール・ルージュが国を救ってくれると期待し、彼らを歓迎したそうです。
しかしながら、クメール・ルージュが目指した社会は「原始共産主義社会」。
資本主義、都市文明はいらね。原始時代みたいに農業だけでやっていこうぜ。って考え方です。
理想とする社会には知識人は必要ない、政策のじゃまになるとみなし、教師、医師、技術者などのを片っ端から殺害。
それだけにとどまらず、文字が読める人、眼鏡を掛けている人、やわらかい手をしている人まで、またその家族も全員殺害したそうです。
しかし、いきなり殺すのではなく何かしらの理由をつけて殺したかったのでしょう。
そのため、ありもしない罪を捏造して自白させる必要がありました。そんな身に覚えもない罪を自白させるための拷問施設がここトゥール・スレンです。
以降、ベトナム軍がプノンペンを制圧、この施設を発見するまでの2年9ヶ月の間に12,000~20,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのはわずか12人のみでした。
なお、トゥール・スレンは通称です。このあたりの地名を取ってそう呼ばれているようです。
S21というのがこの収容所の暗号名だそう。S21の21って何?って話ですが、当時のカンボジアには全土に167の強制収容所があったとのこと。S21はその中でも最大規模のものみたいです。
以上、簡単にですがまとめてみました。
パンフレットとWikipediaで犠牲者数や生還者数に一部差がありますが、いずれにしても凄まじい惨状の舞台となったということに変わりはないでしょう。
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さて、さっそく入っていきましょう。

チケット代は8ドル(約880円)です。
日本語のオーディオガイドの料金も含んでいます。
オーディオなしは5ドルですが借りることを強くおすすめします。理解の深さがダンチです。


パンフレットです。中は敷地の案内図。
どのタイミングでオーディオガイドを聞けばいいかわかりやすいです。
ところで案内図を見るとこの施設、なんだか学校みたいではないですか?
実はもともと高校だったものを収容所として利用したのです。

建物の周りは有刺鉄線がゴリゴリ。
収容者が逃げれないようにでしょうね。
当時のまま残してるんでしょうか。
オーディオガイドを聞いていきます。
「トゥール・スレン虐殺博物館へようこそ」
重ための男性の声が雰囲気ありすぎで最初マジ怖い。

最初のポイントはここです。
庭に棺桶が14基。
意味は後ほどわかります。

A棟と呼ばれる建物に入っていきます。
この先マジで閲覧注意です。

1階のとある部屋。
拷問用の鉄製ベッドです。

壁には犠牲者の写真が。
ベトナム軍がこの施設にはじめて踏み込んだときに撮影されたようです。

別の部屋のベッド。
上にある小さな木製の箱は汚物入れです。

痛々しい。
はじめてこれを発見したときの衝撃ってどれくらいだったんでしょうか。
何しろここで何が行われているかなんてまったく知られていなかったわけですからね。

こちらのベッドは大きく変形してますね。
一体どんな拷問が・・・。
犠牲者の写真が続きます。



発見当時、14人の犠牲者が施設内に残されていたそうです。
ちなみに施設職員はすでに撤退、証拠の大部分を破棄した後だったとか。
冒頭の庭で見た14基の棺桶は彼ら最後の犠牲者を弔ってのものです。
建物の階段を上がって行きます。

施設内にはこのような椅子が多く置かれています。
またオーディオでも、気分が悪くなった場合は無理せず座って休んでください、と重ね重ね注意されます。

やはり元学校。少々懐かしさを感じます。

A棟を後にし、順路を進んでいきます。
こちらは庭にある拷問用具です。もともと遊具だったとのこと。

収容者を吊るして拷問したようです。
気絶したら壺の中に顔を突っ込んで意識が戻ったら拷問再開。
壺の中は収容者の糞尿です。

B棟に入っていきます。
建物に有刺鉄線。飛び降り自殺ができないようにとのことです。
B棟には当時の国内の様子がわかる写真や、拷問の過程などの展示でした。

はじめの部屋です。
左上の人物がクメール・ルージュの指導者で、この虐殺の首謀者であるポル・ポト。
左下の人物がこの収容所S21所長のドッヂです。

クメール・ルージュははじめ、カンボジア国民に熱烈に歓迎されます。
先述したとおり、当時のカンボジアはロン・ノルの腐敗政治とアメリカによる爆撃で疲弊しきっており、クメール・ルージュこそ救世主となってくれるだろうと期待したためです。
しかし現実には、無理やり地方に移住させられたり、知識人層を大量虐殺したりといったことが起きます。

S21の職員。
驚いたことにほとんどが10代などの幼い少年です。
何の思想にも染まっていない子どもが扱いやすかったのでしょう。
子どもたちに拷問の方法を教え、大人たちを拷問させたようです。
そして彼らもまた、最終的には拷問を受ける側となったとのこと。

収容者たち。
記録として入所者の写真が撮られていたそうですが、これで全員ではないのでしょう。
というのも、ほとんどの資料はここが放棄される前に破棄されたためです。

収容者は名前ではなく番号で呼ばれます。
また連れてこられるとただちに裸にされたようです。
オーディオガイドによると「人々から誇りと尊厳を奪う重要な行為」とのことです。
こうして人間であることを徹底的に否定されたのですね。
余談ですが、これらの写真を撮る際、ぼくのカメラがこの写真内の人を一人残らず顔認証したのが印象的でした。

収容所の環境は劣悪。多くの人が命を落としたようです。
なお、自白前に死亡した場合、収容所の職員が罰として拷問されたとのこと。
S21所長のドッヂはあくまでも自白調書をとった上で処刑することにこだわったようです。
次C棟行きましょう。

独房です。
非常に狭い。1畳ほどでしょうか。

数が足りなくなったのでしょうか。2階には木造の独房も見られました。
順路通りに進んでいきます。
次D棟です。



生還者の一人、芸術家のバンナットさんによる当時を再現した絵。
バンナットさんは、絵の技能が共産主義の思想を広めるために利用価値ありとして拷問を免れたようです。
その絵の技能が当時の悪行を表すために役立っているのですね。
バンナットさんは2011年に永眠。生涯、この事件の語り部として活動したとのことです。

ボパナさん。その容姿と才能により、最も有名な収容者となった方だそうです。
彼女に関する資料は多く残されています。
その愛のストーリーには胸を打つものがあります。
本来であれば彼女だけでなく、収容者一人一人にストーリーがあるのでしょう。
それらの多くは残されていません。彼らが存在したという記録さえも。


この部屋は、ここから少し離れたキリングフィールドと現在呼ばれる場所に関する展示ですね。
自白が取れた収容者はキリングフィールドという郊外の区域へと運ばれ処刑されました。
キリングフィールドにはこの後向かう予定です。

鎮魂のパゴダ。
となりに千羽鶴がありますね。日本からのものでしょうか。
それとも千羽鶴って万国共通なんでしょうか。

最後にモニュメントを。

わかっている犠牲者の名前が刻まれています。
この収容所が稼働していたのは1975年頃から。だいたい40年とちょっとくらい前ですか。日本が高度経済成長に湧いている中ですか。
この事実が色褪せないために、このような悲劇が二度と繰り返されないように、ここを訪れた見学者はここで見たものを語り継いで欲しい。そのようにオーディオガイドは伝えていました。
そして、多くの国で拷問は未だに合法。まだやるべきことは残っているのです。
そうオーディオガイドは締めくくりました。
「まだやるべきことは残っているのです」ですか。
オーディオガイドのおじさんのドスの効いた声も相まって、なんだかこの言葉がやたら耳に残ってますよ。
ただの観光客であるぼくに何かできることがあるかはわかりません。
とりあえず今日見たことをブログとして残しておこうと思います。
以上、トゥール・スレン虐殺博物館でした。
だいたい見学時間は2時間くらいでしたかね。
体力もそうですがちょっと精神的に疲れました。
いろいろ思うところはありますが、本日はもう一箇所行くところがあります。
先ほどもちょろっと出てきたキリングフィールドです。
トゥール・スレンで自白をさせられた収容者が処刑された場所ですね。
街から15kmほど離れた郊外にあります。
参りましょう。
と言いたいところですが、すみません。
キリングフィールドについての日記はまた次回とさせてください。
というのは完全にぼく側の都合なんですけどね。
極力間違ったこと書かないようにネットで調べながら書いてるのですが、ちょっと今回間に合いそうにありませんので。
内容量的にも大きくなりそうですので本日分の日記は2回に分けさせてください。
鬱々とした内容が連続することになり大変恐縮ですがもうしばらくお付き合いください。
今回の投稿は以上です。
最後まで読んでいただきオークンでした!
2020年1月4日 カンボジア・プノンペンにて

今日の1枚。B棟から見える発展したプノンペン市街。
※お願い
今回の記事中に事実と異なっている箇所などがありましたら、大変お手数ですがお問い合わせフォームまたはSNSのDMなどでご指摘いただければ幸いです。よろしくお願いします。
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