#47 枯葉剤の被害者たち ベトナム(3)

東南アジア

こんにちは。にしきよです。
今日もよろしくお願いします。

※本記事はショッキングな画像を多く含みます 。ご注意ください。

今回の出来事です↓
1. ホーチミン市でビザ申請
2. 枯葉剤の被害者たち


1. ホーチミン市でビザ申請

2020年1月13日のお話

シンチャオ!
前回のミトーからベトナム最大の都市ホーチミン市に移動しています。

ちなみにホーチミン市の名称は、ベトナムの建国の父ホー・チ・ミン氏に因んでいます。
旧称はサイゴン。
ベトナムの人は呼び捨てにするのを避けるためだと思うのですが、ホーチミンシティーって呼ぶみたいです。
ぼく最初それ知らずにホーチミン、ホーチミン言ってたんですよね。
で、ベトナムの方にホーチミンシティー!って訂正されてました。
そういう訳なのでこのブログ上でもホーチミン市でいきたいと思います。

こちら、これから3泊ほどお世話になる兎屋ゲストハウスさん。
ホーチミン市唯一の日本人宿です。

ここに到着したのがお昼前。
ご飯を食べてしばらくはくつろぎつつ情報収集を。
日本人宿のメリットの一つはガイドブックや宿の人から情報を集められることです。

その後、本日はやることがあるため出かけます。
ベトナムのビザを延長しなければいけないのです。

日本人はベトナムにビザなしでも15日間いることができるのですが、バイクで回るとなるとおそらく間に合わないので1ヶ月ほど延長申請します。

行ってきまーす。

ホーチミン市の様子。
都会です。ベトナムの首都はハノイですが、最大の都市はここホーチミン市なのです。

そこかしこにお寺が。
いったんスルーします。
まぁ多分もう来ないでしょうけど。

あ、ジョリビー!
フィリピンのファストフードです。
ベトナムにも進出してたんですね。

サークルKでフリーwifiが使える。
とってもありがたい。

三角傘のかたちのチョコレート。
16万ドン(約750円)ですか。短期旅行にはちょうどいいお土産ですね。

やって来ましたのは旅行代理店です。
ツアーやバスチケットの手配の他にビザ延長の代行もしてくれます。
バックパッカーが集まるブンビエン通りやデタム通りに密集しています。
まずは事前調べで優良と聞いていたシンツーリストへ。

ぼく「ビザの延長代行お願いできますか?」
係員「ええと、45ドルです。それと8日のお時間かかります。」
ぼく「そんなに長くはいれないな。もっと早くできませんか?」
係員「4日でもできますが55ドルになります。」
ぼく「そうなんだ。(あれ?ネット情報では3日で30ドルだったのにな)」
ぼく「ちなみにクレジットカードは使えますか?」
係員「使えますが25%の手数料を頂いています。」
ぼく「そうなんだ。(規約違反じゃん)」

値段についてはコロコロ変わるので正規の値段かもしれませんが、クレジットカードで手数料上乗せは明確な規約違反です。
とは言ってもけっこう見かけますが。それでも10%上乗せの場合が多いです。
結局このシンツーリストはなんか信用できなくてやめました。
でもシンツーリストは一番の優良旅行代理店みたいですよ。調べた限りでは。

で、いくつかの旅行代理店回ったのですが結局やめました。
一番良い条件でも55ドルと3日が必要だったので。
それよりかはオンラインで申請できるE-ビザにしようと思った次第です。
こちらはクレジットカードで25ドルで申請できます。

という訳で宿に戻ってE-ビザ申請開始です。
ってクソめんどくさいなコレ!どんだけ記入項目あるんだ!
まぁ国と国の移動の申請なんでめんどくさくて然るべきですけど。

パスポートの写真やら、
自撮り画像(真顔)やらを添付して、

めでたく申請完了です。
受付完了の案内が3日後メールで来るみたいです。
ビザはそれ以降に受け取れます。

で、それに伴って、ホーチミン市を出発して1週間以内にラオスとの国境の町ラオバオにたどり着く必要が出てきました。
以下、ややこしいですが理由です。面倒な方は飛ばしてください。

・E-ビザを受け取れるのはベトナム入国時(E-ビザはすでにベトナムに入国した旅行者の滞在延長のためではないので)
・そのため、一度隣国に出国してベトナムに再入国する必要がある
・カンボジアはビザを取るのにまた30ドルいるためラオスを目指す
・ベトナムのビザなし滞在期間内にラオスとの国境の町ラオバオへ行くことに

以上理由です。めんどくさいでしょ?
ラオバオまでは約1,200kmみたいです。

1週間で1,200km・・・行けるっしょw

2. 枯葉剤の被害者たち

※本記事はショッキングな画像を多く含みます 。ご注意ください。

シンチャオ!
今お世話になってる宿は朝ごはん付きで23万ドン(約1,100円)です。
朝フォー&生野菜がうれしい。

お昼ごはん。
え?その間は?と思われるかもしれませんね。
ええと、記憶がありません。たぶんのんびりしてたのかと。
リアルタイムと差が開いてくるとそのへん抜けてきます。いかんいかん。

うん、おいしい。
ただ、この横が工事現場で砂埃がわりと多めに飛んでくるのはいかがなものでしょう。
机にあるトイレットペーパーはスプーンなどについた砂埃を拭くためだと思われ。
4万ドン(約190円)。

本日は観光していきます。
バイクで向かってもいいのですが街ブラも兼ねて徒歩です。
それほど遠くないので。

中国っぽい雰囲気の道。
いや、もしかしたらこれもベトナムなのかも。
そもそもベトナムが中国っぽいのでよくわかりません。

はい、戦争証跡博物館にやって来ました。
こちらの博物館ではベトナム戦争についての歴史や様子が展示されています。

入っていきましょう。
入場料は4万ドン(約190円)です。

建物に入る前の庭には戦車やら戦闘機の展示が。
これ実際に動いていたやつでしょうか。

入っていきます。
HAPPY NEW YEAR 2020って場違いじゃないですか?
そしてここでインスタ撮影するのも違うと思う。

1階部分の片隅にお土産屋さん。
展示内容と全然関係ないのが多いと思いますけど。
指輪とか。誰がここで買うんでしょう。

パンフレットがあったので一部もらっていきます。
いろいろな言語のがあります。

1~3階まであります。
順路的には3階からスタートみたいです。

①の部屋。パンフレットには「歴史的真実」とあります。
さっそく見ていきます。

と、その前にちょっと時代背景を整理します。
ベトナム戦争に至るまでの過程をまとめました。
簡潔にまとめたつもりではありますがやや長いです。読み飛ばして頂いても大丈夫ですが、理解が深まると思いますのでぜひ読んでいただければ。

・・・・・・

1887年からベトナムはフランスに植民地支配されていた。

1940年、フランスは第二次世界大戦の中、ドイツに降伏。フランスが離れた後、ドイツの同盟国であった日本がベトナムに進駐。

1945年、第二次世界大戦で日本が降伏。ホーチミンが独立宣言を行い、共産主義国である「ベトナム民主共和国」が誕生する。

新しい国としてスタートしたかに見えたが、ここにフランスが再び介入。南に「ベトナム国」という傀儡政権からなる国を樹立させる。これによりベトナムは南北で分断される。

ホーチミン率いる北ベトナムは話し合いにより国を統一しようとするが交渉は決裂。北ベトナムとフランスの間で第一次インドシナ戦争が勃発する。
8年にわたる戦いの末、北ベトナムが勝利。
国連は北緯17度線を停戦ラインとしてベトナムを南北に分け、ゆっくりと統一を目指していくという流れに。

しかし、ゴ・ディン・ジエムという人物がアメリカの支援を受けて南ベトナムに「ベトナム共和国」という国を樹立。
しかし、ゴ・ディン・ジエムの悪政によりクーデターが多発しベトナム共和国は崩壊。

東南アジアに社会主義の国が広まることを恐れたアメリカは、軍を直接介入させ北ベトナムを攻撃。このアメリカvs.北ベトナムの戦争がいわゆるベトナム戦争である。

・・・・・・

最初の部屋見ていきましょう。
この部屋にはベトナム戦争についての歴史的背景やデータなんかが展示されているようです。

ベトナム全土の被害状況や、

落とされた爆弾の量など。
感情に訴えるのではなく客観的な事実を展示している印象。

次の部屋へ進んでいきます。

②の部屋。パンフレットには「回想」とあります。

室内には写真がずらり。
ベトナム戦争に従軍した戦場カメラマンが撮影したものだそう。

命を落とした戦場カメラマンたち。
このパネル内に日本人はいませんでした。

2020年2月5日追記
命を落とした日本人の戦場カメラマンの方がいました(上画像にも写っていました。大変失礼しました。)。
一ノ瀬泰造
沢田教一 氏
ご指摘くださった方々にお礼申し上げます。ありがとうございました。

あ、この写真教科書で見たことありますね。
「安全への逃避」。すみません。見たことあるだけで題名は今知りましたけど。
日本人カメラマン沢田教一氏が撮った写真で、ピューリッツァー賞(報道関係の著名な賞)を受賞したんですって。

他の写真。
こんなの映画の1シーンにか見えないんですけど。

以下、戦時の写真とその時の状況を説明したパネルです。
小さくて恐縮です。書いてあることをそのまま写します。

「戦場の祈り 米軍舞台は戦場で従軍神父によるミサをおこなっていた。多くの兵士が無事に帰国できることを願ったのだろう」
従軍神父というものが存在したということを初めて知りました。
戦争中もやはり信仰が心の支えだったのでしょうか。

「サーチ・アンド・ディストロイ 米軍の作戦は農村、森林、山岳地帯、海岸、湿地帯、あらゆる場所で「敵」を見つけて壊滅させることだった。」
これ誰目線のコメントでしょう?展示の流れから判断するとたぶん従軍カメラマンの言葉です。

「農民は敵 農村から追いたてられる男性。私には普通の農民に思えるが、米兵にとっては攻撃の対象になった農村は敵地であり、そこの住民は敵となる」
このカメラマンどんな気持ちで撮ってたのでしょう。

「医師のいる町まで 米軍、サイゴン政府軍の攻撃を受けた村には診療所がなかった。負傷した農民は肉親たちによって遠い町まで運ばれた。」

「アメリカの国益のための爆撃 1965年から1973年までアメリカ軍がベトナムで使用した爆弾量は424万6000トン。 アジア・太平洋戦争中、原爆を含めた日本への投下量16万1425トンの約26倍になる。」
26倍・・・

パネルの展示はおそらく時系列です。
枯葉剤の話に入っていきます。枯葉剤とは、ベトナム戦争時に米軍が使用した化学兵器です。
密林に隠れてゲリラ戦を展開する北ベトナム軍に苦戦したアメリカは、枯葉剤をベトナム全土に散布して土地にダメージを与えようとします。
この枯葉剤は非常に毒性が強く、動物実験の際には奇形を生じさせる性質があることがわかっていたものだったとのことです。

「フックちゃん 米軍は解放軍の拠点となる森林の見通しをよくするために大量の枯れ葉剤を散布した。枯葉剤に含まれたダイオキシンが原因と考えられる先天性障害を持つ子が生まれた。」

「枯葉剤の被害児 1961年~71年、米軍は約366キログラムのダイオキシンを含む約8000万リットルの化学物質・枯葉剤をベトナム国土の25%、農村など約26000ヶ所に散布した。300万人以上が枯葉剤被害者となり数十万人が死亡、現在も数万人の被害者が病気と貧困に苦しんでいる。」

枯葉剤の被害児の写真です。手足が奇形となっています。

ベトちゃん、ドクちゃん。
日本でも有名ですね。胴体部分で結合した状態で生まれた双子の赤ちゃんです。
7歳の時分離手術を受けて成功。
その後ベト君は体調がすぐれず亡くなったそうです。
ドク君は元気に成長して結婚、男女双子の父となっているとのこと。世界中の人々に枯葉剤の悲惨な影響を伝えているようです。

「ベトの49日。寺院で合掌するドク。」
どんな気持ちだったんでしょうか。

その他にも多くの被害児の写真がありました。

また、被害はベトナム内だけではなく、米兵やその子どもにも見られたそうです。

2階も枯葉剤被害の展示が続きます。

飛行機を使って散布している様子がビデオで見れました。

おそらく戦争終結後に生まれた枯葉剤の被害児たち。
目を覆いたくなるような写真も多いです。
現在でも枯葉剤の影響と見られる子どもが生まれることがあるそうです。

2階の一室には絵の展示がありました。
おそらく枯葉剤の被害者が描いたものだと思います。

そしてこの部屋には、枯葉剤の被害者の方がいました。写真は控えました。
3人ほどいました。机に向かって何やら作業をしています。

その内1人は、目がない?

目が開かないとか潰れているとかではありません。
まるでのっぺらぼうのように、目があるはずの場所がきれいに皮膚になっていました。

彼はピアノを弾いていました。
彼は自分の顔も見たことがないかもしれません。
いえ、光さえ感じたことがないのかもしれません。

他の1人がぼくに気づいて近寄ってきました。
車椅子に乗っている。
顔はおじさんだが体は幼児のように小さい。
頭と手のひらだけは成人男性と同じ大きさでアンバランスだ。

その人は笑顔を見せながら近寄ってきた。

ぼくは恐怖を感じてしまった。
顔や態度には出していない。それは断じて言い切れる。

だけど、恐怖を感じてしまった。
もっと言葉を選ばずに言うと、それ以上近づいて欲しくないと思ってしまった。

ぼくは以前から、差別とか偏見とか、そういうものは持たないように生きたい。そう思っていた。
いや、すでに十分そうなれていると自分では思っていた。



大間違いだった。



彼が目の前1mに近づいてきた時、感じたのはただただ恐怖だけだった。
慈しみとかそんなものは一切なかった。

たぶんぼくの中に、差別とか偏見とか、そういうのがしっかりとあるのだ。隠していたつもりだったけど。
それが今回、暴力というわかりやすい形ではなく、恐怖という比較的見えにくい形で現れたに過ぎないのだ。

彼はそれ以上近づいて来ることはありませんでした。

ぼくはゆっくりと部屋をあとにしました。

彼はおそらく枯葉剤の被害者の中でも障害が軽いうちに入るでしょう。
今日見た写真にはもっと痛ましい写真もありました。

ですが、展示されている写真を見てもこれほどまでに大きな衝撃はありませんでした。
おそらく、写真ではある意味自分との間に距離があって、それに守られていたのだと思います。

・・・・・・

最後に1階の展示です。
枯葉剤という化学兵器を無差別に使用したことで、アメリカは世界中から非難されます。

ヨーロッパでの反戦デモの様子です。

アフリカでも、

南米でも、

アジアでも。

そしてついにアメリカ国内からも。
彼、アメリカからでしょうか。何を思うんでしょう。
ちなみにこの博物館、アメリカからの旅行者が多いです。

国際世論と自国内の声の高まりに耐えきれなくなったアメリカはついにベトナムから撤退。
それを受けて、北ベトナムは南ベトナムへの一斉攻撃を開始しサイゴンを陥落。
約20年続き、民間人458万人を含む600万人以上の死者を出したベトナム戦争がここに終結します。

・・・・・・

以上が博物館の展示の一部です。
実はかなりはしょってます。

この博物館は事実をできるだけ正確に伝えようとしていると思いました。
一部、カメラマンの手記なんかを除いてだいぶ客観的な内容だったんじゃないかと。
たいてい、こういう戦争系の博物館って立場がワンサイドだったり、かなり扇情的な説明とかが多いですから。

今一度、お土産屋さんを覗いてみると写真集なんかのちゃんと関連したものが置かれてますね。

それでもこの辺はよくわかりませんが。
あ、でももしかしたら売上の一部が被害者支援に使われえているとかかも。そうと信じたい。

はい、今日はもう一箇所行きます。

統一会堂です。
南ベトナム時代には大統領官邸として使われていたようです。
ここが陥落して戦争が終わりました。ベトナム戦争終結の地です。
今は博物館。こちらもホーチミン市の代表的な観光スポットです。

が、なんかもう疲れたのでパスです。
またの機会に。
外観の写真だけ。

はい、帰りましょ~

コンビニで甘いもの食べたい。
え?コーヒーとサンドイッチで2万ドン(約94円)はコスパ神!
明日の朝も来よっと。

コーヒー1万ドン(約47円)とプリン1.2万ドン(一個56円)。
このプリン、2個で1.2万ドンかと思って買ったのに1個あたり1.2万ドンだった。

ベトナムはバラ売りの価格が記されてるみたいです。
こんなふうに品出しされてたら2個パックの値段だと思っちゃうでしょ。

ソースは自分でかけろなワガママ仕様。焦らす。

おいしいけど手がベタベタになった。

ホーチミン市ってこんな感じで道に大木が林立してるんですけど、普通にすごくないですか。いつから植えてあったんでしょう。

宿で少し休んで夕飯はそのへんの屋台で。

焼きそば。3.5万ドン(約160円)。
できたてほやほやうまし。

水のペットボトルにソースが入れられていてクスリ。

こんな感じで人々の往来を眺めながら食べてますよ。
たそがれるの大好き✩

今日起きたことをいろいろ思い返しながらいただきますね~。

今回の投稿は以上です。
最後まで読んでいただきカームオンでした!

2020年1月13・14日 ベトナム・ホーチミン市にて

今日の1枚。戦争ってダメだよね。

※お願い
今回の記事中に事実と異なっている箇所などがありましたら、大変お手数ですがお問い合わせフォームまたはSNSのDMなどでご指摘いただければ幸いです。よろしくお願いします。

コメント

  1. Motts より:

    楽しく読ませてもらっています。

    「命を落とした戦場カメラマンたち。
    このパネル内に日本人はいませんでした。」

    日本人います。
    一ノ瀬泰造さん: 映画にもなった有名な方です。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E3%83%8E%E7%80%AC%E6%B3%B0%E9%80%A0

    • nishikiyo nishikiyo より:

      Motts様、コメントおよびご指摘ありがとうございます。
      ほんとですね。写真に日本人の方おられますね。
      該当部分を訂正しました。

      今後ともどうぞよろしくお願いします(^^)

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